迷いながら強くなる

「迷いながら強くなる」
これは棋士羽生さんの著作。

僕は将棋は指しませんが、
棋士として勝ち続けている羽生さんの
どんなことを考えているのか、興味があった。

たまたま、友達が本の断捨離をする中に
この本があったので譲り受けることにした。

特にこの本に惹かれたのは、
「迷いながら強くなる」というタイトル。

僕はよく悩み、迷い、行動を選択することに
躊躇することがあるからだ。

勝ち続ける人、決断を下し続ける人は
迷いなく決定しているものかと思っていた。

けれど、あの羽生さんでさえ、迷いながら
一手一手を決めているということを知った。

それなら僕が迷っていながらも、
一歩ずつでも進めるようになるために、
この本から学ぶために開いた。

いくつか心に響くことがあったのでシェアします。

玲瓏の項

玲瓏とは富士山の頂上から眺めるような
風光明媚な景色、またはそのような心境。

富士山には登ったことがある。

そこからはの景色はなんといったらいいのかな。

今まで知っていたつもりだった場所。
山中湖とか、沼津漁港とか、伊豆の山々とか。

行ったことがあるし、どういう場所か
知っていたけれど。

富士山から一目で見下ろした感じは、
(あぁ、こうなってたんだ。。)
と改めて感じた。

今までそれぞれの場所で別々だった場所が
全体の中の一部であって、それぞれが
繋がって全体を作っている。

そういうことが一目の世界に入って
全体感といういものを初めて感じた。

そんな感じ。
素晴らしい感じでした。

そんな玲瓏の境地に至るために、自分の意思で
そこへ向かって歩き出すこと。

そして無駄な恐れをもたず、
減らすアプローチも進めること。

新たなスペースが生まれることで
新たなことを取り入れ、解決できる。

自分の持っている知識も日々劣化していることも
受け入れること。

僕は玲瓏に向かえているだろうか?

知識が日々劣化しているとは
あまり考えたことがなかった。

今までの僕を成長させてきた言葉や知識は
原則や本質だと信じているから。

そりゃ一朝一夕で別人にはなれないけど、
時間をかけながらも進んでいけると思っている。

だからその知識を捨てる必要性など
考えたことはなかった。

でも言われた通り、今は新たな学びが
入っていかない感じもする。

スペースがいっぱいだし、
今までの考えと反対のものは受け入れがたい。

世の中には色々な考えがたくさんあるし、
その中で自分の体験と共感するものを
迷いながら取り入れてきた。

それをやり直すとなると非常に億劫だ。

けれど。

やはり目の前に課題はあるわけで。

それを解決するには新たな考えや方法を
取り入れる必要があるのもわかる。

知識が劣化することを受け入れること。

大変なエネルギーが必要だけれども、
常に知識や考えを新陳代謝して
毎日進化成長する。

そういうことも必要なんだと思うと
正直ゲンナリした。

そういう自分はやはり成長より、
同じ考えのままでいたい安定を望んでいるのか。

成長の喜びや感動も知っているつもりだけれど、
変化を嫌う安定も強いことに気がついた。

勝ち続ける羽生さんは変化し続けている。

強いものが生き残るのではなく、
変化に適用できるものが生き残る。

そんな言葉ともリンクしているなと
感じました。

今まで僕を助けてきてくれた考えや知識を
これから先へ進むために捨て去る時。

最初のページから取り入れにくい課題と
ぶつかることになりました。

同じ課題のこととしてもう一つ響いたのが
「初見の視点」という話。

過去にどうだったから、今回もこうする。

人は経験に学ぶものだから、どうしても
過去の成功体験や失敗体験を参考にする。

それは当然だと思うのだけれど。

反面、執着やしがらみともなってしまう。

過去とつなぐとやりにくい手、
一貫性から見るとやりたくない手でも、
「初見ならばどうするか?」という視点。

その視点でもって打開することもあるという。

朝令暮改の良い意味があるように、
朝決めたことが望ましい結果じゃなければ
夕方には変更する柔軟性を持つ。

人は一度決めたらそういう自分を肯定する
ために、なかなか修正しにくい面がある。

昨日までNoと言っていたのに今日はYesという。

一貫性の重力を振り切るって、
他人からどう思われるか?を気にしやすいと
余計に取りにくい行動だ。

でも。

今までの自分を正当化するためではなく、
目的のために今は何を選択するか?

この初見の視点というものを
身につけていきたいなと感じました。

先入観の項目で共感したのは
「自分の価値観と思っていても、
他の人から聞いて知ったものである」という点。

この自分の価値観を見つけるということは
よくセミナーのワークでも出てくるもの。

本当の自分を知るためにってやつだよね。

僕も何度も取り組んでいる内容だけれど、
自分の感情をセンサーにして、自分の価値観を
見つけているつもりだけれども。

本当は今まで取り入れてきていいなと感じた
「誰かの価値観」だったりするわけです。

特に価値観を言い表す言葉。

本当の自分の価値観を見つけるためには
自分の言葉を見つけなくちゃいけない。

例えば大切な価値観の中には
「家族」とかありますよね。

でも「家族と一緒にご飯を食べる」とか
「子供と手をつないで公園を歩く」とか
「妻と子供と同じ体験をして笑いあいたい」とか。

家族が大切という価値観の中にも
きっと人それぞれの思い描いていることがある。

この胸の中に思い描かれているイメージを
言い表す言葉を生み出す。

それができるときに、他人の価値観ではなく
自分の価値観になる。

適した言葉を頭から思い出すのではなくて、
腹の底から生み出す。

そんなふうに感じます。

そのためには感情に許可を出していないと
できないのだけれど。

世間では「感情的になるな」
「男の子なんだから泣かないの」
なんて言われて育つから。

感情は心の奥の押入れにしまいこみがち。

感情を無視する練習を続けて大人になるから
何が好きなのか、嫌いなのかもわからなくなる。

だから今度は我慢をやめて
素直な欲求に許可を出す練習をしていく。

社会てきには適さない行動は切り離すけど、
そう感じることには許可を出す練習をする。

限界を超えて走りきった後に出会う
嗚咽するような感動を体験するのもいいと思う。

言葉じゃ説明できない感動や涙も存在する。

思考じゃわからないけど、
心の琴線には触れているもの。

それこそがあなたの中にある
価値観だと思うのです。

評価の項目には面白いことが書いていた。

「課題の分離」という言葉を知った後でも
社会的に、物理的には他人からの評価の世界で
生きていることになる。

理屈ではわかっていても
相変わらず気になってしまう僕。

自信がないから他人からの評価で確認にしたい。
その通りだなと感じました。

ところが羽生さんは評価を絶対的な判断と
受け取る必要はないと書いていました。

評価をしている側の人だって
よくわかっていない部分があると。

確かに、神様じゃないんだから
人のことなんて全てわかるわけじゃない。

評価は作られたものさしがあって、
そのものさしだけで測られた部分だけを見る。

当然測れない部分、測る必要がない部分も
たくさんあるから、それが全てではない。

価値観が合う人合わない人。
共感する部分が多い人、少ない人。
理解してくれる人、理解してくれない人。

当然あると思う。

そうじゃなくて昨日の自分より
進化した自分かどうか?が実体のある評価だと。

僕は昨日の僕より進化できているだろうか?

僕の研究テーマである自信の項目もあった。

僕は自信はあればあるほどいいと思っていたけれど。

羽生さんほどの人でも絶対の自信などなく、
「自信半分、疑い半分」なのだと知った。

修正が必要になるかもしれないということを
考えながらも進んで行くのだそうだ。

確かに世の中には絶対なんてないし、
勝負の世界でなおさら絶対勝てる
というものもない。

僕がここで気がついたことは、
自信をもって選択したいということの裏に
修正が必要なことまで考えるなんて嫌だということ。

そうしたら考えることが2倍になっちゃう。
そんなところまで頭も体ももたない。

そんな風に感じたのだけれど、
やはり羽生さんはそこまでやるエネルギーを
出しているからこそたどり着いてる境地なのだと。

改めてすごさを感じました。

また、失敗は自信を失うために使うのではなく、
振り返って分析をして総括する。

適切な総括を終えたらさっぱりと忘れる
とありました。

確かに、失敗という言葉や現象だけを見ると
できるだけ避けたいものだと思うけど。

分析して次に活かせることに気づき、
成長の糧にもなる面もあるとするならば。

普段は他人のせいにして
逃げたくなるような失敗も
受け入れやすくなりそうだ。

理屈ではわかる。

だけどやっぱり人間痛みは
2倍の感度で見てしまう。

総括の後はさっぱり忘れるとあるけれど、
そうしたいと思うことはたくさんあるけれど、
忘れようとすればするほどできない。

嫌なことばかりを何度も思い出して
追体験してしまうんだよね。
それが無意味だとわかっているのに。

脳は否定語を理解できない通りの現象になる。

「忘れたいこと」にフォーカスしても
忘れたいことが出てくるに決まってる。

だから、そのためにも「やりたいこと」を
思い浮かべることがいい。

そのための具体的な方法が、
「わたしのやりたいことは何だろう?」
と自分へ質問することだ。

痛みに反応してしまう自分。
何度も思い出してクヨクヨしてしまう自分。
それはわかった。

じゃあそんな自分のやりたいことは何なのか?

「コントロールできない他人にしてほしいこと」
ではなくて。

「自分が主体的にしたいことは何なのか?」
やはりそこにたどり着くことになる。

自分の目的があって、そこに向かうための
必要な経験ということであるならば。

環境のせいによる痛みではなく、
自分が選び、成長のための
経験という意味づけになる。

・・・っとまあ、理屈では言えるけれど
やっぱり失敗や痛みは感情的には嫌だよね。

理屈は理屈で支えになるからそれも利用するとして。

感情を忘れるには味わい尽くすのが一番近道。

感情は自分がそう感じていることを
わかってもらいたいだけだから。

そんなことを思い出しました。

迷いの項目。

僕は迷うことがたくさんあるのですが、
迷っている時は頭の中では忙しくしているけれど
行動は止まっているという状態。

結果が出ないから次に進めない。
結局時間を浪費することになる。

それに対し、羽生さんは
「とりあえずやってみる」が最短コースだという。

たしかに、ちょっと人に聞けば
簡単に済むことってたくさんある。

でもちょっと聞くができない僕もよくいる。

「こんなこと聞くなんて迷惑かな。。」
「失礼にあたらないだろうか。。」
「怒られたりしないだろうか。。」

こう見ると、ほぼ「恐れ」からきている。

自分にベクトルが向きすぎている
からこそ生まれる恐れ。

きっと必要な質問は
「どうすればこの課題をクリアできるか?」
だ。

いろんな知識は仕入れてきてはいるけれど、
意識をしないと自分フォーカスになる。

そんな自分も自己受容しつつも、
意識してベクトルを変えて、
行動を選択していきたいと思いました。

それから、もう一つ引っかかった一節。

「迷っている時というのは、それとは全く
別のことで何か不満を抱えているのです。」

まさしく、自己受容とつながる話だと感じました。

自分には欠けているところがある。
他人と比べて価値がない。

他人から掲げられた100点の理想の姿に届かない
減点された価値の低いわたしがいる。

その欠けている心のスキマを埋めようとして
モノを買ったり、食べ物で満たそうとしたり、
自己重要感を満たそうとしたりする。

全て自分の心のスキマを埋めることに
フォーカスしてる。

ここを不完全な円形でなくても
いびつな形がわたしだとしてしまえば。

凡愚なるわたしを受け入れてしまえば、
そのままで満たされていることになる。

もう自分を満たす必要はないのだから、
他人へ矢印が向いていく。。

まずは自分を満たすことと
自己受容は同じ目的の話なんだな。

・・・うーん、胃のあたりがモヤモヤする。

理屈ではわかっているのだけれど、
そんな境地にたっていない僕。

ただ、時々そんな状態になったことはある。

例えば苦しかったマラソンでゴールした時。
共に走った仲間と祝福の気持ちでハグをする。
感動で胸がいっぱいで他に何もいらない瞬間。

例えば大好きな仲間が集まるセミナーや勉強会。
愛のエネルギーで満たされ、尊重され、
何か仲間の力になりたいと感じる時。

そういう瞬間は満たされているとわかっているのに。

どうすれば維持できるのだろうか?

・・・うーん、わからない。

ただ、安心して魂が裸になっている感じがある。

思考も理屈もなく、むき出しの魂のままの状態。

だけど普段はそれなりの常識の服を着て
魂が傷つかないように鎧も着る。

そういう他者との分離感が、

「みんなと同じじゃなきゃいけない」
「頼ってはいけない」
「やっぱりダメな自分」

というような欠けている感じを生み出していく。

そんな風に感じます。

それに、そういう仲間のいる場では
みんな心の扉が開いているのだけれど。

世の中全ての人や場所がそれを望んでいるか
と言えばそうじゃない。

理論と効率と利益の追求で
お金を生み出し、存続すること。

多くの企業はそういう場所だと思うし、
僕たちもお金が欲しいと思うから、
そういう場所が必要とされている。

だから、望まれていない場所で
それをやろうとすることは難しい。

だから、そういう場所を自ら作り出すか、
そういう場所に行くことで、繰り返し
満たしていくしかないかな。

本にはよく小さな感動や感謝で心を満たす
ということが書いてある。

道端の小さなお花に感動し、
ご飯が食べられることに感謝し、
今生きていられることに感謝せよと。

理屈ではその通りなのだけれど、
やはり慣れてしまうもので、
そこへの感動や感謝を忘れてしまう。

そして不満や痛みにフォーカスしてしまう。

わかっていてもその繰り返し。

それでも。

大変だけど、そこは意志の力を使って
そういうところに感謝を見つける
練習をしていくしかないみたい。

心屋さんも「満たされていることを知れ」
と書いていました。

自然と不満を探してしまう自分も受け入れながら、
感謝を見つける訓練をする。

そんな風に感じました。

さて、投稿前に改めて読み直したけれど、
なんとも自分の意見が多いなと感じました。

意見があることは良いことと思う反面、
学ぼうと出会った知識や言葉を飲み込めない
言い訳のようにもなっている。

最初の知識の劣化と捨てる課題に戻るわけだ。

同じところをぐるぐると回っているのだろうか?

おっと、自信半分、疑い半分で良いんだった。

明確な答えを見つけて楽をしたい僕としては
なんとも釈然としない状態だけれど、
迷いながら強くなるしかないのだろうね。

一緒に迷いながらでも進んでいきましょう。

ではでは。
祐也。

迷いながら強くなる

ゆーや。
”3つのステップ”であなたの「学び」を「行動と収入」に結びつける、
自分軸の作り方専門家の井上祐也です。
(サービス内容:セミナー講師、カウンセリング)
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